生い立ち少年時代

杉本康紀幼少期.jpg鳥取県の「羽合(はわい)町」で育ちました。(現在は湯梨浜町はわい)

運動が得意で、転校生が来た日にかけっこで勝負したことも(笑)

思えば、幼稚園生ではいじめっこで、小学校低学年のとき集団にいじめられていました。

勝ち負けにこだわっていたのかもしれません。

現在、その僕をいじめていた子は親友になり地元鳥取(倉吉市)で整体師として活躍しています。

 

小学校4年生まで、泳げませんでした(息継ぎができなかった)。

高学年では陸上・水泳の選手に選ばれ、陸上では地区の新記録を出したことも。

 

ですが、陸上の練習で脚が痛くて泣きながら返ったこともあり、中学校では「陸上部にははいらないぞ!」と心に決めていました。

 

ちなみに音楽の才能もあったようで、鼓笛隊でトランペットを吹いたりしました。

音楽の先生に吹奏楽の道も進められ、そちらへすすんでいたらどうなっていただろうと思います。

中学・高校とテニスに打ち込んだ6年間

中学校では担任の先生がさそってくれたソフトテニス部に。

みごとにハマりました。

今でも覚えているのは先輩の怪我の代わりにレギュラーに選ばれたとき「お前なら代わりがつとまると思ったわけじゃないぞ」と顧問(元担任)に言われたこと。

腐らずバネにできたと思います。

 

あとは地区大会の決勝で、後に高校でダブルスペアを組むことになる相手との試合。

相手のマッチポイントでも、集中して良いポイントをとり、勝てたこと。

 

県大会での引退試合。あと一生で中四国大会にでられる瀬戸際。

相方が「もういけた」気になって緩んでいたのを、声かけなかったことを後悔しました。

 

高校ではシングルスがしてみたいということで、硬式テニスへ。

ダブルスは中学時代のライバルと組んで県ベスト4くらいまで行きましたが、シングルスはメンタルのコントロールが行かず自滅が多かったです。

 

高校で印象に残っているのは団体戦。

いいところまで行くと言われていたのに、1回戦で負けそうになりました。

この試合を落としたら負けという仲間の試合の時、シンクロするような不思議な感覚があり、応援も含めたみんなで乗り切り、僕の試合で逆転勝ち。

決勝ではクラブチームの選手を要する学校に負けましたが充実した最後でした。

(その後そのテニスクラブの大阪校に就職することになります)

 

大学受験はテニスで選んだようなものでした。

センター試験で800点超えたのに、先生のすすめるまま日本一の体育系の筑波大学をうけ、実技試験で落とされました(泣)。

 

一浪して、第2志望の金沢大学に受かり、スポーツ科学を学ぶことになります。

浪人時代、部活外でテニスを教えてくれた池田コーチには感謝しています。

故障に泣かされ続けた大学テニス

大学テニス.JPG

大学では男子寮に入り、テニスと漫画とゲームの思い出が強いです。

(勉強もちゃ

んとしましたが、すぐに現場で活かせるものではなかったですね)

 

高校生の途中から腰に違和感を覚えていました。

大学での全力ダッシュのボール拾いなど、無理を押して身体を追い込んだつけがついに。

試合ができないほどの腰の痛みに悩まされるようになりました。

 

大学生活の半分くらいを腰の痛みで棒に振りました。

同期の部長と「なぜみんなが同じメニューでないといけないのか」喧嘩をすることも。

 

自分のペースで練習できる4年になってからは、他大学の人と組んで北信越ベスト4までいけました。

 

そして、高校時代のツテをたより大阪のテニスクラブへ就職します。

テニスをリタイヤ

テニスのインストラクターはとにかくハードでした。

1日6-7時間、声を出しっぱなし、走りっぱなしです。

アウトのボールも拾って、打ちやすいところに返してあげないといけません。

生徒さんは週1回ですから、90分のレッスンが貴重ですよね。

手を抜くことはできません。

 

あっというまに腰だけでなく膝も痛めて、半年で辞めざるを得ませんでした。

 

その後、1年間親会社のテニス用品のルートセールスをしていました。

プライベートの事情と将来を考え、正社員と転勤を蹴り退職しました。

スポーツでの怪我に悩む人を助ける仕事をしたかったのです。

カイロプラティックの道へ

解剖実習4.JPG

自分の身体も治したいなと思いながら、リサーチも兼ねていろいろなところに行ってみました。

接骨院、整体、マッサージ、リフレクソロジー…

どれもピンときませんでしたし、よくなりませんでした。

そして巡りついたのがカイロプラティック。

 

近くのカイロプラティックを受けてびっくりしました。

痛みとぜんぜん違う背骨にアプローチして、筋肉の痛みがなくなったことに衝撃を受けました。

 

その先生の母校の説明会に行きました。

「神経の働きを正常化する」コンセプトに感銘を受け入学。

(実はお金の問題で3年くらい入学は遅れました)

 

WHOの世紀のカリキュラム「4年間4500時間」の学生生活は大変でした。

(大手のチェーン学校は2年制、アメリカのカイロプラティック大学卒の先生によると9割はやっていけないらしい)

バイトをしながら学費生活費をかせぎながらも、実技・学科は落とせない。

ですが一生の仕事にするつもりでしたので、吸収力は大したものだと思います。

 

臨床実習では、教務長に「なんでそれをやるの?」と、ひたすら根拠を聞かれ

検査・評価・介入・再評価の組み立てを徹底的に叩き込まれました。

 

実際なかなか理屈通りには行かないものでした。

しかし、開業した先輩先生の「あなたの後ろには待っている人が並んでいるからね」

という言葉を胸に頑張りました。

就職しての悩み、そして開業

カイロプラティックの学校を卒業してOBの経営する接骨院へ就職。

カイロプラティック部門を任されました。

 

しかし、通うのは毎日おしゃべりが目的のようなお年寄りが大半。

「余計なことをするな。決まったことだけをやれ」

できることがあるのに、やれない。

そもそも求められていない。

 

そんな環境に耐えられずすぐに辞めてしまいました。

 

そして自分で開業へ。

当時の就職先の院長や学生の実習時代の先生の勧めで、

「身体の反応を観て、調整箇所を決める」

アクティベータ・メソッドの国際認定取得を機に出張専門で開業を果たしました。

治せど治せど、壊して戻ってくる。そして現在の形へ

開業してからも研鑽を続けていました。

自分の腰・膝の故障のこともあり、施術だけでは根本解決に至らないことを実感していました。

 

そのため、

・古武術的な身体操作法

・ヒーリング、瞑想(マインドフルネス)

など心技体に総合的にアプローチできるように勉強してきました。

 

そして通ってくれる人も増えたのですが、その分悩みが大きくなってきました。

「治しても、壊して戻ってくる」

 

そして良くならない人の共通点が見えてきました。

・普段の行動を省みない(痛みが消えたら、ほったらかし)

・自分の見たいところしか見ない(変化ではなく残った痛みだけにこだわる)

・周りや身体のせいにする(自分で新しいアクションを起こさない)

・すぐに投げ出す(自分の期待通りに進まないことに耐えられない)

 

そんな中、技術や知識を高めれば高めるほど、

それに依存する人が集まってきたのを実感しました。

 

 

「人を治してあげる」ということに嫌気がさしてしたところに出会ったのが

・操体法

・フェルデンクライス

でした。

自分の感覚を頼りにする

「フェルデンクライス」「操体法」

どちらも自分の「心地よい」という感覚を頼りに動きを探求していきます。

 

それを知るまでは合理的な「正しい」動き方を教えていました。


身体を痛めるような動きのクセのある人には習得に時間がかかるものでした。

しかも、できるようになるまで、できているかどうか自分でわかりません。

そのせいで、挫折する方がとても多かったです。

アスリートのようにストイックで、よっぽどの決意がないと続きません。

 

反対に「心地よい」という感覚は誰にでもあります。

その感覚にそって動きを丁寧に見ていくことで

だれでも無理なく楽な動きに変わっていくのを見て、これだ!と思いました。

 

そして、僕は施術ベッドを捨てました。

身体の都合を聴く

たいわ堂では、ご自身の感覚を大事にしていくというコンセプトを持っています。

 

ひとつ大きな落とし穴がありますのでお伝えします。

「身体はあなたの望むペースで変わるとは限らない」

 

新しいパターンや動きが身につく(定着する)には時間がかかります。

逆に、その場での変化は感じられなくても学習は無意識下で進みます。

(自転車の練習のように)

 

とある神経科学はこういう言いました。

「感情は期待値との差分で生まれる」

 

期待が高すぎると、余計に不安・不満がつのります。

身体の変化を期待する(期を待つ)ことのできる人が、逆に最短で変化する人だと思います。

 

ご自身の身体のペースを待ちながら取り組むことが近道になります。

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